二の矢を受けず

「不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。ここで、次にどうするのかに関して、二種に分かれるだろう。一人は、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。もう一人は、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことの出来る人である」
「仏の教えを知らない凡夫は、最初の人である。苦しさに嘆き悲しんで、混迷の心は深まるばかり。楽も、かえって迷いの心を増すばかりである。仏の教えを知る人は、第二の人である。苦しみを受けてもそれに耐え、苦しみに囚われることが無くなり、生死の束縛を脱する事が出来る」
「このことが、仏教を知らない者と知る者との違いなのである」と
お釈迦様がお弟子さんに、仏教を知っている人と知らない人どちらにしてもいろんな感情が生まれますが、知っているとどう違うでしょうか?というような質問をされました。その質問に回答された言葉です。
嫌な事や楽しいことに対して、喜怒哀楽などの感情が起きる。これは誰でもあります。
最初に一の矢としてウッ!とショックなことや怒るようなことを受けたとしても、そのあとをどう対処するか、ありのままに現実を受け取り、それに対して対応したいところです。
ですが、そのまま放っておくと、自分で変な解釈をしたり不安になったり怒ったり、貪欲になったり、話を膨らませて更に自分でダメージを増やしてしまいます。これが二の矢です。
二の矢は自分で作りだすものなので、防いだり、かわしたり、傷を小さくすることが出来るわけですね。苦しい事があってもそれを必要以上に膨らませて憂えず、楽しい事があっても調子に乗りすぎてえらいことにならないように、自分で刺さりに行かないようにしたいところです。
特に、ネガティブなことがあると、ポジティブに変換しないとと思うかもしれませんが、あくまでネガティブなことはネガティブとしてそうだったねと受け止めて対処します。ネガティブな感情自体は生きていたらおきる当たり前のことです。
そこからそれじゃあこうしようかな、話聞いてもらおうかな、資料作りに勤しもうかなとか、上手くいく方法を考えていく方向へ歩んでいけばいいのではないでしょうか。
こんなこと言われて、えらい目にあったとか、こういうことされて自分はショックだったということが、一の矢とします。そこから、あの人はいつもあんな感じで言うとか、ショックだった理由を正当化するために理由をいくつも考えつくとかしていき、腹が立つことが広がっていくと二の矢を自分で作っていっている感じでしょうか。
ある程度はしょうがないものの、二の矢で自分の傷口を広げてるかも?と立ち止まって考えることは、明るくたくましく楽しく生きていくための助けとなると思います。
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