さとったと言う日常会話
職場の愚痴で、「もうこの会社の体制はどうやっても変わらないなあと、悟った」とか言う感じで使われます。さとったと言う言葉を諦めたと言うように使われているわけですね。いやまあ日常会話で 「悟り」とはなんてなかなか議論することはないでしょうけれども。
違って使われているように思いきや、元々「諦」と言う字は、辞典によると
つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。
で、仏教書によると(どの本に書いてあったがわからずすみません、メモしてました)仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、悟り、真実、真理、を意味すると言うむしろ良い感じの言葉で、同じような意味でもあると言う面白さ。
と言うことで、最初の愚痴の話になると あきらめる=仕方がない、腹立つけど と言う意味になるでしょうか。その境地に至るとしても、諦めるなら、なんでそうなのか、自分はどんなことが納得が行かないのか、やりたくないのか、原因は何だろうかと、掘り下げて考えてみる時間をたまに作るといいのではないかと。
同じ 諦めるにしても、次に活かせる知恵が出たり、新たなアプローチを思いついたり、意味はないようでも、自分が何が好きなのか、何に熱中できるのかとかを見極める力がじわっとつくのではないでしょうか。
諦めて、自分や他人に対する期待値が下がるなんてことが、あっても、それはそれで、楽しめるハードルが下がっていいことかもしれませんよ。
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