今ここを意識するという
「禅入門 カトリック修道女の歩んだ道」
という本を図書館で借りて読んでいます。
カナダ生まれのヴァイオリニストで修道女の方が
日本で禅の印可を受け、
老師として修道女として
フィリピンや英国、世界各地で人々を
導かれている方の本です。
どうやって修行されて、見性に至ったとか
聖書の言葉との共通点がどうだとか、
神への信仰と仏を目指すことには対立もなく、
相乗効果があるというような ことが書かれてあり
面白いです。
ハウトゥーてきな禅入門というのを求められる方には
向いていないかもしれないですが、これは
何を求めて、禅をするのかということを
考える上で、入門の本ではないかと思います。
で、ご興味があればぜひ本を読んでいただきたいところですが、
私がふと面白いなと思ったところを引用させてもらいます。
座禅をしていないときでも「いま、ここ」を意識します。
禅寺で見習い僧に配られる手引書には、次のようなことが
書かれています。
仏陀とある哲学者の会話です。哲学者はこうたずねました。「あなたが、仏教は悟りに至る道である。と説いておられると聞きました。なにか方法があるのですか?つまり、あなた方は毎日どのようにされているのですか?」
仏陀は答えました。「話をして、沐浴そして座って、、、」哲学者はこれをさえぎって言いました。「なにか特別なやり方でもあるのですか?誰でも話をして、食べて、沐浴をして、座ります。」仏陀は答えました。「一つ違いがあります。私達は話をするときも。『話をしている』 という事実をはっきりと意識しています。ほかのことをするときもそうです。しかし、他の人達は話をしたり、食べたり、沐浴をしたり、座る時、自分がいましていることを意識していません。
イザヤが言ったのも同じことではないでしょうか?「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞きしたがって、魂に命を得よ」このイザヤの言葉は『意識すること』を換気しているように思えます。
ああ、普段、、行動を意識して、今これをやるぞと言ってやることは
少ないなあと。お経をあげようとしはじめるときは意識していますが、
それ以外の日常のすべての行動で、
その時にしている行動にフォーカスをどれくらいの時間、
当てられているだろうか、、、
これが意識があっちやこっちにいっている
大きな原因だなと、、
少しずつ、今していることを意識するという
考える時間を増やしていきます。
合掌
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