しなやかに生きる

人のふり見て

2019.03.06

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3月5日は第一火曜日のおつとめ日でした。みなさんとお経をあげさせていただいたのちに、お話させていただいたことなどを。

法句経ーダンマパダ お釈迦様の言葉であろう原始仏典から紹介させてもらいました。

他人の過ちや、したこと、しなかったことなど、見る必要はない。自分を観るべきだ。なにをしているか、なにをしていないのか、と    (50)

他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は観え難い。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、悪賢い博打打ちが不利なサイコロをごまかすようにかくしてしまう。          (202)う。                     

人は、他人の過ちや欠点にはいとも簡単に気づくというか、見つけようとしてしまいます。自分と他人を比較して、自分はこんなにだめなんだーと嘆くわりには、人の間違いを追求してしまうという習性。

人の間違いを追求するということは、自分は正しいよーということを証明したい。あの人は嘘つきだ、ぷんぷん となっている時は自分はあの人と違って正直者ですと言いたい。

 そんなん思ってないと言いたいところですが、どうでしょうか。そういう気持ちが少しはあるのではないでしょうか。こういう習性が自分にはあるよと自覚しすると、相手の過ちを指摘したいなと思った時に、ふっと立ち止まって考えることが出来るようになると思います。

 その上で、必要だろうなと思ったら注意するとか、言い方を変えるとか、指摘するのをやめるとか、反射的に動くよりはずいぶんましな反応が出来ると思います。

それより何より、まず自分が今、何をしているのか、何をしていないのか、どうでもいいことばっかり考えながら動き続けてるのではないのか。自分のことは、何もわかっていないのに、わかろうともしていないのに、棚にあげまくりなのに、なんで人のことばかり、注意したがるのかということを、よく吟味しなさいと、教えていただいている言葉なのかなあと私は受け取りました。

 「人の振り見て我が振り直せ」という言葉も、意味は違いますが、人のこと言ってる位ならまず自分を見なさい、自分にツッコミをいれるというか、直したほうがいいよということに気づきなさいということで、人間の習性を利用できる言葉ですね。

 人のことはよく見えるということは、自分の気づかない長所や短所は周りの人に聞いたほうがわかるということでもあります、周りの人に聞けるという環境があれば、ありがたいことです。

 しかし、お釈迦様の時代からサイコロの博打ってあったんですね、サイコロの重さを調節して、特定の目だけ出しやすくなる仕掛けとか、丁半博打みたいなのがあったのでしょうか。 ちょっと気になります。

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